元祖大森家
大森家と大森玉池軒(ぎょくちけん)
赤間関硯の歴史上、大森家の記録「大森家譜」は重要な基礎史料です。
大森家は、赤間関硯の総本家筋であり、藩政時代は、萩藩(長州藩)の支藩である長府藩の御前硯屋として禄二十石を賜わり、兼ねて萩藩の御用も勤めた家柄でした。
『大森家譜』によれば、藤原鎌足から数えて30代目の子孫である直幸が、応永2年(1395)門司へ来住し、硯彫を家業としたと記されています。
応永21年(1414)2月、直幸は室町幕府の御用を賜り、幅三尺、長さ五尺、厚さ一尺五寸の硯を彫り、「龍潭(りゅうたん)」と名付けました。この龍潭は足利家代々の重器になったといわれます。同年8月15日には硯を献上した室町将軍足利義持から「天下一※1土佐守(てんかいちとさのかみ)」を受領※2し、以後この名乗りを例としました。
次の31代直秀は、応永29年(1418)2月5日に受領して、土佐守玉雲斉と名乗りました。32代直吉の代になって延徳年間(1489-92)に門司から赤間関の西の端町(教法寺山麓)へ転住します。当時の家構えは、間口5間、奥行7間の大屋敷であったと伝えられています。
天正15年(1587)、33代芳清のとき、豊臣秀吉が九州平定するために赤間関に立寄った際、船を屋敷に横付けにして、製硯作業を見ます。芳清から硯を献上された秀吉は、大いに喜び矢立※3を取り出して硯の海(関門海峡)の風景を詠んだ歌を短冊にしたため、愛用の槍を添えて芳清に与えました。また、この時裏山に大きな森の繁みがあり、この由来により芳清は秀吉から大森の姓を賜ったといわれています。
芳清が大森初代、太郎次郎頼澄(よりずみ)が大森2代、この2代頼澄は、時の朝廷に「龍門の硯」を奉献して元和3年(1617)、次のように宜旨※4を受けます。
大森家最後の当主であった大森久三郎の残した「赤間関硯石の由来」によれば、この宣旨以降、彫った硯の裏面に「天下一」と、その下に頼澄の角判を銘に彫るようになった、とあります。
ちなみに、彫られた銘はすべて返し小刀が使われています。返し小刀とは、一度彫った字の画をもう一度反対からV字に彫るもので、深くあざやかな印象になります。
この返し小刀の銘は、上物の硯に見られ、赤間関では明治期頃まで使われました。
楕円硯裏面 17世紀末頃 天下一 赤間関住大森土佐守 頼澄作
頼澄の子、頼元にも寛永20年(1644)、次のように宜旨の下付がありました。「天下一」の銘は天和2年(1682)に5代将軍、綱吉が天下一の使用禁令を出すまで使われました。
時代が下って元文4年(1739)、仁左衛門の時、関門海峡を挟んだ赤間関の対岸、豊前門司の硯石が採取出来なくなります。
小倉の小笠原公が御留山※5にして、硯石が関門を渡れなくしたからです。そこで長門国一帯を調査して、吉田宰判※6管内の地、厚狭川のほとりに、その石を発見しました。そしてさらに寛保元年(1741)稲倉村にその山を見つけます。
天明2~3年(1782~3)頃、この地を訪れた古川古松軒は「西遊雑記」の中で「赤間関と称するすずり石はことごとくこのあたりの名産なり。上品の石は厚狭村といふところの山より出るといふ。中品の石は豊前の大積山といふより数多く出る。それを下関へ渡すをすずりに製して他国へ出す」と書いています。この頃は、門司の石が再び関門海峡を渡っていたものと想像されます。
仁左衛門の後、助左衛門から政右衛門―文助―半兵衛―茂十郎―瀬兵衛―直蔵を経て太郎次郎頼寿(よりひさ)と続きます。芳清が大森姓を名乗ってから直蔵までが直系で、頼寿は茂十郎の弟子として大森家に育ち、慶応4年に大森家の家督※7を相続して太郎次郎頼寿と改め、初代玉池軒(ぎょくちけん)を名乗ります。頼寿は、大森初代の太郎次郎頼澄と並び称せられる程の名工だったようで、明治5年に明治天皇御巡幸の際、香炉とすずりを天覧※8に供したことが記録されています。頼寿は明治8年5月に54歳で世を去りました。頼寿が玉池軒を名乗る前に制作した文鎮「竹節」にその卓越した技を感じとることができます。
文鎮「竹節」 幕末頃 (初代玉池軒が大森家を家督相続する以前の作)
頼寿には頼三、源蔵の二人の息子がいました。長男頼三は父と気があわず、24歳の時に上京し、すずり師「珏泉堂(かくせんどう)」を名乗ります。父頼寿に負けぬ腕を持っていた珏泉堂は、山縣有朋らの支援を受けますが、関東大震災を機に帰郷します。帰郷後、大森家を頼りましたが弟の源蔵はすでに他界しており、次代の当主久三郎はこれを拒んだため、唐戸の徳光(親戚)に寄り、のち上田中町借馬に移り住みました。珏泉堂は堀尾家に出入りするようになり、当時少年だった玉弘堂3代目の堀尾卓司に多くの示唆を与えました。(昭和2年78歳で死去)
次男の源蔵は兄の頼三(珏泉堂)と異なり、温厚な性格で、明治8年家を継ぎ2代目玉池軒となります。明治13年の東京博には審査員となり、その後博覧会で5回受賞しました。明治35年10月に明治天皇が長府の毛利家に御駐泊の際、行在所※9の装飾方をうけたまわり、すずりを一面献上しました。(明治36年8月52歳で死去)珏泉堂と源蔵の二人は書画骨董にあかるく、鑑定をよくしました。
源蔵の死後、その養子久三郎が3代目玉池軒を継ぎました。献上や出品で功績を上げましたが、昭和20年6月の空襲前に死去、同年7月の二度目の空襲により家伝の大森家文書や秀吉から拝領した槍、短冊などとともに老舗も灰となり、家業を継ぐ人もなく、永年の歴史をもった大森家もここに終りを告げました。
大森久三郎(3代玉池軒) 昭和10年頃 (しものせきなつかしの写真集より)
※1 天下一(てんかいち):天下唯一の名人の意味を持ち、織田信長・豊臣秀吉などが鏡・釜・土器などのすぐれた作者に許した銘。のちに諸品の看板に乱用され、誇大広告に使われるなどの弊害を生じたため、天和2年(1682)に使用が禁じられた。
※2 受領(ずりょう):朝廷や寺院が出入りの商工業者に名乗りを許した非公式な官名
※3 矢立(やたて):硯(すずり)と筆を一つの容器におさめたもの
※4 宣旨(せんじ):天皇の命を伝える文書
※5 御留山(おとめやま):江戸時代、林産物や動物を取ることを禁止された山
※6 吉田宰判(よしださいばん):江戸時代の萩藩の行政区分の一つ
※7 家督(かとく):相続すべきその家の財産・事業などの総体
※8 天覧(てんらん): 天皇が観賞すること
※9 行在所(あんざいしょ):旅行中の天皇の宿泊所
参考 赤間関硯の由来と硯物語 八島柳堂著
「郷土」第27集 下関郷土会 編集・発行