玉弘堂の歴史

赤間関硯本家「玉弘堂」の歴史

玉弘堂の初代堀尾吾作は、筆の生産地として知られた広島県賀茂郡の出身で、庄屋の三男に生まれ、筆をはじめとした文房具を売る行商をしていました。明冶29 (1896) 年、分家した吾作は当時13歳になる息子の坂次郎を連れて赤間関市(現下関市)東南部町(ひがしなべちょう)に移住します。吾作は、かねてから取引のあった東南部町の硯屋「中島伊豫吉」(伊豫屋(中島)吉五郎・銘藤原英信) の支店運営を任され、息子坂次郎は伊豫吉に奉公に出ます。伊豫吉は赤間関で一番取引高の多かった硯屋でしたが、資料はほとんど残っていません。名前が残る資料としては、天保9(1838)年4月の赤間関人別帳の内、東南部町の人別名前控帳に「伊豫屋吉五郎」とあります。また、文政7(1824)年の林門藏の手記に、東南部町に7軒あった御用達の一つとして中島伊兵衛(伊豫屋吉五郎)の記載があります。

幕末から明治初期にかけて、赤間関には20数軒の硯屋があり、赤間関に石材を出し、多くの硯工が生産を支えていた厚狭郡を含めて職人300人、家数200軒が製造に携わっていたとされています。しかし、明治維新以降、筆記用具が筆からペンに移行する中、硯生産は明治の後半から急激に衰退し、隆盛を誇っていた伊豫吉もつぶれてしまいました。13歳から13年間伊豫吉に奉公した坂次郎は、伊豫吉と吾作が営んでいた伊豫吉の支店を引き継いで「玉弘堂(ぎょっこうどう)」を興し、消えかかっていた赤間関硯の伝統を守りました。

坂次郎の次男、卓司の残した赤間関硯覚書には、「明治中期は大森(東南部町王司)、伊豫吉(東南部町)、大山(小やの浜、現入江町)、山名(入江町)、杉山(観音崎町)、盛永(神宮司町、入港する船舶に売る沖売りをしていた)があり、後に枝村(西細江町)、下津(西之端町)、三島(西之端町)、伊藤(西之端町)外が栄えたが、一番取引高の多かった伊豫吉もつぶれ、大正期になるとほとんどがなくなり、主な硯屋が大森、枝村と玉弘堂の三軒となり、昭和20年の下関空襲で被災した大森と枝村が廃業、戦後は玉弘堂一軒だけになった」と記されています。

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南部町界隈図(昭和15年~19年頃)

玉弘堂が現在地に店舗を構えたのは昭和26年からですが、以前は下関市役所の敷地内にありました。昭和30年に完成した旧下関市役所の建設に伴い、立退きに伴う代替地として当地に転居しました。なお、初代堀尾吾作、2代坂次郎までは、店雇いの職人が制作した硯の販売を行っていました。店主自ら硯の制作を始めたのは3代目の堀尾卓司からで、現在は4代目の堀尾信夫がその技術を継承しています。後継者が育ちにくい中、信夫の弟子として髙原祐二、中村一姫の2名が研鑽を積み、赤間関硯の伝統を今に繋いでいます。

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玉弘堂3代目 堀尾卓司

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玉弘堂4代目 堀尾信夫